役割理論ってナニー??2
2009-09-02
役割理論ってナニー??の続編になる。
何故続編を書こうと思ったかと言うと、前の記事においてありがたいことにコメントをいただいたのがきっかけである。
勿論コメントに対する返信はしたが、なにしろまとまりが無いし、折角面白い題材を貰って再考させられたのだから、新しく記事を書こうと思った訳である。
さて、前回私は何がやりたかったかと言うと、「役割理論とは何かを求めること」では全然なくて、「役割理論とは何かという一般向けの内容をネタに、仮想対戦法の位置付けを再考すること」になる。よって前回の主文は、
>結局は3対3を考えるので最終的判断には困らない
の部分である。まずそのことを再確認しておく。
そしてまた、私は基本的に、「役割」と「役割理論」という言葉を使い分けている。
役割理論とは「役割について考えること」だと短絡的に言わず、「存在意義」という別の単語を用いた意図はそこにある。
役割と存在意義を同じだとはみなしていない、と言った方が早いだろうか。
この2つの用語の決定的な違いは、役割は各個体が単独で持ち得るが、存在意義は個体をパーティに投入した時初めて現れる、という点だろう。
そして、役割理論を「パーティの最終審査を各個体の存在意義によって行う構築方針」と改めて定義すれば、仮想対戦法は役割理論ではないし、「パーティ構築の際に存在意義を参照する構築方針」とするのであれば、仮想対戦法も部分的には役割理論と言えるだろう。「部分的に」と言ったのは、仮想対戦法は大雑把には「最終審査を仮想対戦によって行う」ことしか言っておらず、存在意義を参照するかどうかは本質的な問題ではないからだ。”私の”仮想対戦法では存在意義も考慮してはいる。
役割と存在意義の関係について。
私は、「役割を持った個体がパーティに投入された時存在意義が決まる」と考えている。
更に、特に”私の考えている”役割と存在意義に関して。役割は具体的で存在意義は抽象的である。
役割は「対処」という無機質な言葉を根本に据えていることは以前話した通りである。
「後出し対処可能」と言ったら、後出しから交代無しで衝突したら勝てる、ということしか意味していない。
確実性というやや抽象的な言葉も出たが、それもやはり無機質で、「敵が毎回流れた時に何回後出し対処可能を持続できるか」とか「急所に当たっても後出し対処可能でいられるか」とか「こちらの技の命中の低さに関わらず高確率で対処できるか」といった情報の寄せ集めに過ぎない。
それに対し存在意義は、例えば「対策」という言葉があるが、これは極めて有機的である。例えばガブリアス対策としてガブリアスに後出し対処可能な個体(例えばオボンパルシェン)を入れたとして、それが本質的な「対策」になっているかどうかは意見が割れるところだろう。
後出しで安定に対処できることから対策になっているとみなす人もいるだろうし、迎撃力の無さに起因する使いにくさから対策としては不十分とみなす人も居るだろう。
そして、皮相的役割理論というのはまさしく、最終審査を存在意義によって行い、かつ役割を抽象的に定義した構築方針のことである。言い換えれば、具体性の全くない(仮想対戦を行わない)構築方針のことになる。
皮相的役割理論の典型的な一例としては、役割{物理アタッカー}をパーティに入れると存在意義{(物理)エース}が発生し、役割{物理受け}をパーティに入れると存在意義{物理主体の敵への対策}が発生する、という割と馴染み深い例が挙げられる。
勿論枠組みとして役割と存在意義を分けている訳ではないだろうが、皮相的役割理論を常日頃から行っているような人を見ると、以下のように構築をしている人が多いように思われる。
1、まずパーティに必要な基本的存在意義を大雑把に設定。基本的だと思われる存在意義の組み合わせを選ぶ際に経験法則が作用。
2、欲しい存在意義に見合うと経験法則的に思われる役割を持った個体を何体か暫定的に投入してみる。
3、2で仮投入した特定の個体達の存在のために要求される存在意義を経験法則的に突き止め、それに見合うと経験法則的に判断された個体を投入してみる(メンバーチェンジ含む)。
4、経験法則的に妥当と思われるパーティになるまで3を続ける。
1は無意識的に行っているものと思われる。
経験法則という言葉を繰り返し用いたが、無意識的に「こうするのがいいんじゃないか」と思っていることをそう呼んだのであって、例えばどのようなことかと訊かれても難しい。
しかし例えば、無意識的でない例ならば、私はたまに「構築の基本は物理アタッカー2体特殊アタッカー1体物理受け2体特殊受け1体」といったような文句を見かけるが、これは基本的存在意義を経験法則によって設定した結果だと言えるだろう。しかも最初から(存在意義でなく)役割で指定してしまっているから更に具合が悪い。
さて、この皮相的役割理論の何が気に入らないかというと、まず1つ目が「終止経験法則に頼りっぱなしなところ」である。
経験法則が研ぎすまされた人ならば兎に角、私のような無直感な人では、全く筋違いのパーティができあがってしまう。個体が存在意義を果たせないか、果たせてもパーティ全体での存在意義の組み合わせ自体が貧弱であるという場合が多い。
その点で、途中過程はどうであれ、最終審査は仮想対戦により行うとする方が遥かに合理的だろうと思う訳だ。
そして2つ目について。2点目の方がずっと重要である。すなわち、「具体的でないところ」である。
経験法則が具体的でないことを考えると、先程の不満点と重複する気もするが、実は本質的には違う主張をしている。
1点目の「経験法則に頼りっぱなし」が没だと言ったのは、「如何に上手い立ち回りを見せても勝てないようなパーティが頻繁にできあがってしまうため」である。
2点目の「具体的でないこと」が没だとするのは、大方想像できるだろうが、「作成者自身の立ち回りが下手になるから」である。コメントにも書いたが、この考えは、次の近似等式に強く表れている。
そのパーティでより勝てる≒より上手に立ち回る≒より深くそのパーティを理解する
そして、より深くパーティを理解するということは、より多くの具体的状況が考慮できることだと考え、そのためにはパーティ構築の段階からできるだけ具体的に状況を想定しておくのがいいだろうと思った。
だから”私が提案している”役割は相当に具体的な形をとっているし、仮想対戦法における最終審査も、具体の極みと思われる3対3の仮想対戦によって行われるとする訳だ。
ふぅ、もえつきちまったぜぇ何とか結論に漕ぎ着けたかな。
何故続編を書こうと思ったかと言うと、前の記事においてありがたいことにコメントをいただいたのがきっかけである。
勿論コメントに対する返信はしたが、なにしろまとまりが無いし、折角面白い題材を貰って再考させられたのだから、新しく記事を書こうと思った訳である。
さて、前回私は何がやりたかったかと言うと、「役割理論とは何かを求めること」では全然なくて、「役割理論とは何かという一般向けの内容をネタに、仮想対戦法の位置付けを再考すること」になる。よって前回の主文は、
>結局は3対3を考えるので最終的判断には困らない
の部分である。まずそのことを再確認しておく。
そしてまた、私は基本的に、「役割」と「役割理論」という言葉を使い分けている。
役割理論とは「役割について考えること」だと短絡的に言わず、「存在意義」という別の単語を用いた意図はそこにある。
役割と存在意義を同じだとはみなしていない、と言った方が早いだろうか。
この2つの用語の決定的な違いは、役割は各個体が単独で持ち得るが、存在意義は個体をパーティに投入した時初めて現れる、という点だろう。
そして、役割理論を「パーティの最終審査を各個体の存在意義によって行う構築方針」と改めて定義すれば、仮想対戦法は役割理論ではないし、「パーティ構築の際に存在意義を参照する構築方針」とするのであれば、仮想対戦法も部分的には役割理論と言えるだろう。「部分的に」と言ったのは、仮想対戦法は大雑把には「最終審査を仮想対戦によって行う」ことしか言っておらず、存在意義を参照するかどうかは本質的な問題ではないからだ。”私の”仮想対戦法では存在意義も考慮してはいる。
役割と存在意義の関係について。
私は、「役割を持った個体がパーティに投入された時存在意義が決まる」と考えている。
更に、特に”私の考えている”役割と存在意義に関して。役割は具体的で存在意義は抽象的である。
役割は「対処」という無機質な言葉を根本に据えていることは以前話した通りである。
「後出し対処可能」と言ったら、後出しから交代無しで衝突したら勝てる、ということしか意味していない。
確実性というやや抽象的な言葉も出たが、それもやはり無機質で、「敵が毎回流れた時に何回後出し対処可能を持続できるか」とか「急所に当たっても後出し対処可能でいられるか」とか「こちらの技の命中の低さに関わらず高確率で対処できるか」といった情報の寄せ集めに過ぎない。
それに対し存在意義は、例えば「対策」という言葉があるが、これは極めて有機的である。例えばガブリアス対策としてガブリアスに後出し対処可能な個体(例えばオボンパルシェン)を入れたとして、それが本質的な「対策」になっているかどうかは意見が割れるところだろう。
後出しで安定に対処できることから対策になっているとみなす人もいるだろうし、迎撃力の無さに起因する使いにくさから対策としては不十分とみなす人も居るだろう。
そして、皮相的役割理論というのはまさしく、最終審査を存在意義によって行い、かつ役割を抽象的に定義した構築方針のことである。言い換えれば、具体性の全くない(仮想対戦を行わない)構築方針のことになる。
皮相的役割理論の典型的な一例としては、役割{物理アタッカー}をパーティに入れると存在意義{(物理)エース}が発生し、役割{物理受け}をパーティに入れると存在意義{物理主体の敵への対策}が発生する、という割と馴染み深い例が挙げられる。
勿論枠組みとして役割と存在意義を分けている訳ではないだろうが、皮相的役割理論を常日頃から行っているような人を見ると、以下のように構築をしている人が多いように思われる。
1、まずパーティに必要な基本的存在意義を大雑把に設定。基本的だと思われる存在意義の組み合わせを選ぶ際に経験法則が作用。
2、欲しい存在意義に見合うと経験法則的に思われる役割を持った個体を何体か暫定的に投入してみる。
3、2で仮投入した特定の個体達の存在のために要求される存在意義を経験法則的に突き止め、それに見合うと経験法則的に判断された個体を投入してみる(メンバーチェンジ含む)。
4、経験法則的に妥当と思われるパーティになるまで3を続ける。
1は無意識的に行っているものと思われる。
経験法則という言葉を繰り返し用いたが、無意識的に「こうするのがいいんじゃないか」と思っていることをそう呼んだのであって、例えばどのようなことかと訊かれても難しい。
しかし例えば、無意識的でない例ならば、私はたまに「構築の基本は物理アタッカー2体特殊アタッカー1体物理受け2体特殊受け1体」といったような文句を見かけるが、これは基本的存在意義を経験法則によって設定した結果だと言えるだろう。しかも最初から(存在意義でなく)役割で指定してしまっているから更に具合が悪い。
さて、この皮相的役割理論の何が気に入らないかというと、まず1つ目が「終止経験法則に頼りっぱなしなところ」である。
経験法則が研ぎすまされた人ならば兎に角、私のような無直感な人では、全く筋違いのパーティができあがってしまう。個体が存在意義を果たせないか、果たせてもパーティ全体での存在意義の組み合わせ自体が貧弱であるという場合が多い。
その点で、途中過程はどうであれ、最終審査は仮想対戦により行うとする方が遥かに合理的だろうと思う訳だ。
そして2つ目について。2点目の方がずっと重要である。すなわち、「具体的でないところ」である。
経験法則が具体的でないことを考えると、先程の不満点と重複する気もするが、実は本質的には違う主張をしている。
1点目の「経験法則に頼りっぱなし」が没だと言ったのは、「如何に上手い立ち回りを見せても勝てないようなパーティが頻繁にできあがってしまうため」である。
2点目の「具体的でないこと」が没だとするのは、大方想像できるだろうが、「作成者自身の立ち回りが下手になるから」である。コメントにも書いたが、この考えは、次の近似等式に強く表れている。
そのパーティでより勝てる≒より上手に立ち回る≒より深くそのパーティを理解する
そして、より深くパーティを理解するということは、より多くの具体的状況が考慮できることだと考え、そのためにはパーティ構築の段階からできるだけ具体的に状況を想定しておくのがいいだろうと思った。
だから”私が提案している”役割は相当に具体的な形をとっているし、仮想対戦法における最終審査も、具体の極みと思われる3対3の仮想対戦によって行われるとする訳だ。
ふぅ、
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